年の瀬に車を運転していると、ラジオから興味深い話が聞こえてきた。
人間の脳は、左右それぞれ得意分野がちがう。
左脳は文字や言葉などを通じて論理的なことを司り、右脳は視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚などの五感を通じた感性を司るとのこと。
ちなみに、人間は他のどの動物よりもこの左脳がとても発達している。ゆえに左脳は「人間的な脳」と言われ、右脳は「動物的な脳」と言うそうだ。
いずれにしてもこの2つの脳がバランス良く働くことで、より豊かな人間形成がなされるはず。ところが、もしこのバランスが不均衡であったら・・・。
ラジオから聞こえてきた次の言葉にドキッとした。
「最近の研究では、左脳ばかり使っている人は、うつ病になりやすい傾向にあることがわかりました。」・・・!!(*_*;
自分は牧師という仕事柄、文章やスピーチを考えることが多い。
つまり、限りなく左脳的人間と自負している。
ちょっとショックだった。
原因は、その活用の不均衡にあるという。
つまり、近年急増している「鬱」の一因に、この脳の活用の不均衡があるとのこと。
ここで単細胞な私は、「じゃあ、右脳を使えばいいんだな!脳トレ脳トレ!」・・・とつい単純に考えてしまったのだが、そう単純でもないらしい。
実は、心して右脳を使おうと思っても、様々な要因で自ら右脳を休止させる、といった事を無意識のうちに行なっているらしいのだ!
例えば、たまに人混みの中に行くとドッと疲れることがある。
これは右脳がフル回転しているから、だそうだ。
つまり右脳の得意分野で、最近のデジカメには付き物の“顔認識”機能が、人の海の中でフル稼働し、絶えず新しい情報が入力され続けるためだ。
しかし、これでは疲れきってしまう。
だから、毎日人混みの中で生活せざるを得ない状況にある人は、疲れないために右脳を働かせないようにする。つまり、無意識のうちに他人を意識しないようにするらしい。
これは一見、自己防衛本能の働きであると言えそうだが、結果から見れば、右脳左脳のバランスが最適になったわけでもないし、他人を意識しないことで起きる弊害もあると思う。
となれば、右脳と左脳を適度に刺激し、適度に休ませる環境に身を置くしかない。
そんな理想的な環境がどこにあるのだろう?
それが意外と、そんなに特殊な環境ではないとのこと。
答えは、“自然” だそうだ。
確かに、山や海や満点の星空などの大自然に身を置くことで、人はしばしば癒しを経験する。
それは、自然という自分よりも大きなものを前にした時、好奇心(脳への新しい情報の入力=活性)とともに、憩い(対象が大きすぎて分析しきれないことによる脳内での情報分析の終了=休息)も経験するから、だそうだ。
この適度なバランスがいいらしい。
私たちを取り巻く大自然への好奇心、探究心は尽きない。
しかし、ひとたび大自然にいだかれるなら、その大きさ偉大さを前に、ただただ感動する(身を委ね憩う=休息する)より他ないとは、よくできたものだ。
満点の星空を見上げた時、ワクワク感の次に、「ハァ〜・・・」と溜め息が出るのはこのせいだろう。
聖書は言っている。
「神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。」(伝道の書3:11)
真に偉大なものを前にした時に湧き起こる、“永遠を思う思い”や、ため息が出るほど“美しい”と思ってしまう感覚は、これもまた神が人に与えられた祝福の一つなのだろう。
なぜなら、私たちを取り巻く環境は、私たちの脳のバランスを整え、日々感動と喜びを持って心身ともに健康のうちに生きるようにと、最適な刺激と休息を与えてくれるからだ。
私は年の瀬のこのラジオを聞いていて、新年の抱負が頭に浮かんだ。
昨年は、新しい任地で“右往左往”したけれども、2013年は「“右脳左脳”な年にしよう!」と。
そして、心して自然の中に出ていって、この祝福にあずかろうと思う。
今年一年が、皆様にとって希望あふれる素晴らしい年となりますように、心からお祈りしております。
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新井 祐子 (火曜日, 19 3月 2013 00:15)
私は入間川教会で手話通訳の奉仕をさせていただいています。
先日、ある聞こえない信徒の方から、SDAの信徒伝道師養成講習会の講義2コマの、手話通訳をお願いされました。
(うわ~難しそうだなぁ~)と内心ドキドキしながら行きました。実際・・やはり難しかったです(*´Д`)。でも、山地先生が大変わかりやすく教えてくださっていました。教会論、終末論だったと思いますが、数あるキリスト教会の中でも、セブンスデーはどのようなスタンスなのか・・。また日頃の疑問なども出されたり、受講者はとても意欲的に学んでおられました。
そこで出会った女性と、少しお話しできました。
私はまず、その方の名札に「神戸教会」と書かれていてびっくりしました。
講義は東京の荻窪ですから、前の日に来て泊まって、講義に出席されるのだそうです。
その方は、「もう人生残りわずかですから。」と笑顔でおっしゃっていたのがすてきでした。(そうですね!学ぶのに遅いことはありませんね!)
私に通訳を依頼された聞こえない方も、とても熱心で、私の慣れない手話通訳でも、懸命に読み取り、手話を見ながらもさらにノートにメモするなど、本当にすごいのです(゚д゚)!。
1コマ90分、手話を見続けるというのは、目も疲れてとても大変なことです。(それも2コマ!)しかし、その方は、同じ聴覚障害を持つ方々の救いのためにと、すすんで学んでおられるのです。本当に頭が下がります。
このような学びや、出会いを通して、神さまから刺激をいただいたので、(私は何をさせていただけるかな!)と期待して、またお祈りしたいと思います!
Everett Wiles (水曜日, 01 2月 2017 20:14)
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