昨年に引き続き今年(2013年)の六月、山梨県西湖々畔のホテルで行われたキャンプ・ミーティングと称するキリスト教の集会に参加した。
西湖に来たのは実に四十七年ぶりのことで、まだ青春だった頃のさまざまな思い出が蘇った。
昭和三十九年七月、当時湖畔にあった教会の施設、西湖キャンプ場に四十名近い青年たちが集まり、恒例になっていた三泊四日の研修会が行われた。自然に恵まれたこの地でバンガロー生活を送りながら、共に祈り、信仰を語り合い、賛美歌や山の歌を合唱し、近くの山へハイキングに出かけたりした。早朝ヨタカの啼き声と共に一日が始まり、最終日の夜には各バンガローごとに用意した出し物を披露し合いみんなで笑い転げた。わたしは洗礼を受けてまだ半年の初心者だったが、同じ青年会のメンバーの一女性と婚約中であった。
そんな一日、西湖対岸の山にハイキングに行った折、山頂の広場で昼食中に、突然牧師がふたりの婚約を発表した。一瞬みんなの顔に驚きが走ったが、やがてそれが暖かい祝福の拍手へと変わっていった記憶は今も懐かしい。
次の年の夏には計画メンバーの一人に加えられ、ガリ版刷りのキャンプ案内を作り、山の歌なども入れて歌の指導を行ったり、ハイキング係も引き受けて、目の前の西湖を船で対岸へ渡り、そこから紅葉台へ登って河口湖を見下す足和田山へと縦走した。山の上で覚えたての「古き山小屋」や「山こそわが家」などをみんなで歌った。結婚してまだ半年の初々しい細君も一緒だった。手元に、茶色に変色した自作の「西湖キャンプ案内(1965)」が残っている。その中から懐かしい山の歌をひとつ…
〈古き山小屋〉
はるかにそびゆ山の上に
古きなつかし山小屋あり
かべは白く屋根は板ぶき
とびらの前に白樺あり
キャンプが終わった午後、河口湖駅でみんなと別れ、細君とふたり富士登山のため駅前からバスに乗った。五合目に着いて腹ごしらえをしていると、辺りはもう薄暗くなってきた。わたしは二度目、細君は初めての富士登山である。記憶は曖昧だが、夜道を七合目まで登って山小屋に半泊、二時頃には小屋を発って、山頂でのご来光に間に合った。測候所の白いドームのある剣ヶ峰までお鉢めぐりをしようと雲上の道を歩き出す。高山病の兆か、やがて息が苦しく頭痛が激しくなる。測候所の看板の前で記念撮影を済ませ、急いで戻ろうと歩き出すが、足が重く力が入らない。吉田口の鳥居まで何と遠かったことか。一歩一歩高度を下げると頭痛も徐々に治まり、途中から大沢の砂走りにコースをとって一気に五合目へと下った。
この西湖キャンプ場は、翌四十一年の集中豪雨による土石流で全てが消滅し、幻のごとく思い出だけが残った。
集会終了後、近くの根場集落を訪れた。ここも同じ山津波で全滅した村だが、半世紀を経た今は「いやしの里」として復興していた。兜造りといわれる茅葺の民家が二十棟余り、観光化したとはいえ、素朴なその佇まいに好感が持てた。
会期中、一度も顔を見せなかった富士山が梅雨の最中にも拘らず少しずつ雲を払い、残雪を鏤めた荒々しい姿を現わした。
「六月の岩根こごしき富嶽かな」
(2013年、記)